フロアガイド
地下1階フロア
電信電話ことはじめから(1800年代半ばから)
日本に初めて電信機がもたらされた1800年代半ばから、1952年に、NTTの前身である日本電信電話公社が発足するまでの、日本における電気通信事業発展の歴史を紹介しています。歴史の壁画では明治以降の各時代の電気通信事情を象徴するシーンを中心に、大きな歴史の流れを描きました。また、今日のさまざまな電気通信技術の源流や自主技術開発にかける熱意が垣間見える実物史料を展示しています。
技術導入に驚くべき速さ
1854年に再度来航したペリーが幕府に献上した電信機によって、日本人はエレキテルの応用である電信技術に接します。その重要性を熟知していた明治幕府は、成立した1868年に電信の官営を廟議決定、翌年に東京・横浜で電信線架設工事に着手、1870年、東京-横浜間で電信サービスを開始します。1876年にベルが電話機を発明すると、翌年には工部省が早速輸入して実験、国産化に着手します。電話交換サービスは、逓信省によって1890年に東京、横浜両市および両市間で始まります。
電信電話の発展と自主技術開発
日本の電信電話技術は、逓信省の手で運営され、近代国家の基盤として整備されていきます。官営時代の技術の歩みに一貫するものは、海外の先端技術の積極的な摂取と消化であり、それに基づく自主技術の開発でした。ピューピンの装荷ケーブル、フレミングの2極真空管、デ・フォレストの3極真空管と重要な発明が相次ぎました。とりわけ3極真空管が登場して発振と増幅が可能になったことは、まさにエレクトロニクスの誕生であり情報通信技術の発展の始まりでした。日本の情報通信技術も、真空管回路を駆使して新しい有線・無線の伝送方式を開発し、また自動交換機の国産化と改良も進めて、近代的な電気通信ネットワークの技術を自分のものにしていきました。
無装荷搬送方式
1922年から導入された装荷方式には、位相歪、反響、減衰、漏話などの多くの難点はありました。それを克服すべく、1932年に日本の技術者によって提案されたのが無装荷方式です。無装荷方式は、真空管増幅器で十分にゲインを稼ぐとともに、ケーブルに大きな工夫を加えて漏話を抑え、装荷コイルなしで多重化された音声信号の長距離伝送を可能にするものでした。これより僅かに遅れて、無線の分野では超短波による多重伝送方式が開発されています。
T形交換機
1940年に、T形交換機が古都奈良の電話局に導入されました。Tは逓信省の頭文字。A形、H形と輸入技術に頼ってきた自動交換機ですが、逓信省は自主技術の開発を目指したのです。T形交換機の計画には、通話路スイッチや継電器など基本部品の開発と回路構成の開発が含まれていました。しかし、戦雲急を告げるなかでメーカ試作は進行せず、やむなく基本部品開発を断念、回路構成の開発成果のみを活かし、通話路スイッチにはH形用を用いて完成させることになります。
19世紀半ばから20世紀半ばまで、先進諸国の技術に学びつつ自主技術を育ててきた日本の電気通信事業は、戦争による荒廃を経て新しい時代を迎えます。
展示概要
電気通信事業の変遷
工部省、逓信省、電気通信省から日本電話電信公社、民営化NTT、そしてNTTグループへ-経営形態の変化を概観。
電信電話ことはじめから
幕府に電信機を献上するペリーから電信電話の創業、大都市における自動交換の実現、そして戦争を経て電電公社の発足までを11点の壁画で。
ブレゲー指字電信機
最初の電信サービスに用いられた文字を指し示す電信機。やがてモールス符号による電信に移り変わる。
裸線
東京-横浜間の最初の公衆電報サービスに用いられたのは裸の鉄線。鉄はやがて銅に変わる。電信電話の信号を先ず伝えたのは裸線であった。
国産1号電話機
ベルの電話機を模倣して製作されたが、実用化に至らなかった。
磁石式電話機と磁石式手動交換機
1890年電話交換サービス開始。電信機の発電機を回してオペレータに発信を伝える。
無装荷搬送方式
装荷方式の難点を克服した無装荷方式は日本の代表的な自主技術。真空管増幅器と改良されたケーブルの組み合わせで実現。
装荷ケーブルと装荷コイル
電話の音声信号を長距離伝送するとき に起こる減衰を抑えるために開発された装荷方式は、1920年に初めて東京ー名古屋間に導入。
写真伝送
写真電送は1928年の昭和天皇即位式の報道で最初に導入され、戦前から新聞社のニュース写真の伝送に活躍。
T形自動交換機
自主開発の交換機として1940年に奈良局に導入。展示史料は、戦争末期に東京の地下国防電話局に設置、戦後地方都市に転用されたもの。
歴史の壁画
欧米からの技術輸入ではじまった電気通信事業やがて技術は国際水準へと成長し通信サービスは近代化する日本の隅々に広がっていく。