展示パネル情報
1階フロア
技術革新と多様化の時代(1970年代から)
時代のアブストラクト1
発展する電電公社は新サービスの開発と信頼性の向上をめざす
高度成長期から成熟期へと時代は移り、より高度できめ細やかなサービスへの要求が高まってきた。電子交換機による電話機能の多様化と、データ通信、移動体通信等の新サービスの登場。コンピュータが技術の世界を広げ、ネットワークの体質が強化された。
時代のアブストラクト2
加入電話数
総人口と総世帯数
オイルショック以後の不況と低成長時代を迎えて、1970年代なかば以降、平均人口増加率は急速に低下した。世帯数の推移と加入電話数の推移をくらべると、1970年には4世帯に1加入にすぎなかった住宅用電話が、1985年には1.2世帯に1加入と、限りなく1世帯1加入に近づいてきたことがわかる。
国内総生産と経済成長率
高度経済成長にも1960年代終わりからかげりが見えはじめ、1970年代はじめのドルショックとオイルショックをきっかけに、日本経済は低成長時代に入った。実質経済成長率が5%を超える年は少なく、1974年には戦後はじめてのマイナス成長も記録した。
生産額の産業別割合
第1次産業のウェートが減少する傾向は1970年以降も変わらない。オイルショック以後は、第2次産業も減少気味となり、第3次産業のウェートがより高まった。
家庭の消費支出と通信費の割合
家庭の消費支出全体に占める通信、および衣・食・住にかかわる代表的な支出項目の割合を、1970年と1985年で比較してみると、通信の伸びが最も大きく、主食である米類の消費支出とほぼ肩を並べるまでになった。
データ通信サービス
コンピュータの普及にともない、非電話系サービスであるデータ通信サービスが新たに始まった。また、データ通信の広域化・高度化・利用形態の多様化に対応する新たな通信網としてDDX網(ディジタルデータ交換網)が構築され、1970年代末からサービスを開始した。
積滞数とダイヤル化率
悪化する一方だった積滞は1970年をピークにようやく減り始め、1978年に積滞解消、すなわち‘すぐつく電話’が実現した。ダイヤル化率も着実に上昇し、1979年にダイヤル化率100%、すなわち‘すぐつながる電話’が実現した。
時代のスケッチ1
コンピュータの共同利用にはじまるデータ通信サービス
新登場のディジタルデータ交換機(DDX)がその高度化を支える
1968(昭和43)年の地方銀行為替交換システムで本格的なスタートをきったデータ通信サービスは、コンピュータと端末装置を通信回線で結んで情報をやりとりする、新しい通信回線の利用方法。経済活動が高度化し、事務処理の電子化への要求が高まるなか、データ通信の需要は増す一方であった。1979(昭和54)年、データ通信のためのディジタルデータ交換網(DDX網)がサービスを開始した。DDX網は、〈人と人〉をつなぐ電話網とは異なり、〈コンピュータとコンピュータ〉をつなぐのに適した新しい通信網。より高速で高品質、より柔軟で多様なデータ通信システムの構築を可能にした。
銀行のオンライン化から始まった専用データ通信サービス
専用回線を使ったデータ通信サービスは、1968(昭和43)年の全国地方銀行協会の為替通信システム(のちに、全国銀行協会システムへ発展的に拡大)と、群馬銀行の自行内為替通信システムからはじまった。専用回線を使ったデータ通信サービスには、業界団体が運用する産業システムと、行政サービスのための公共システムがある。産業システムとしては、銀行協会システムのほか、信用金庫協会や税理士会のシステム、現金自動支払システムなどを、また、公共システムとしては地域気象観測システム(アメダス)、自動車登録検査システム、救急医療情報システムなどを構築した。
DRESS、DEMOS、DIALS 加入者電話網を使うデータ通信サービス
電電公社は、一般の加入電話網を使って電子計算機を共同利用する〈公衆データ通信システム〉の構築に取り組み、1970(昭和45)年には販売在庫管理サービス(DRESS)と電子計算サービス(DIALS)を、翌1971(昭和46)年には科学技術計算サービス(DEMOS)をスタートした。なかでも、DEMOSは建築・建設用プログラムが豊富で、オフコンやパソコンが普及したあとも設計事務所などでよく利用された。DRESSとDEMOSでは専用のデータ宅内装置を、DIALSでは一般のプッシュホンを使う。
データ通信サービスを発展させた大型計算機DIPSとDDX網
データ通信の多彩なサービスを実現する鍵は、高性能な大型計算機の存在である。電電公社は、サービス開始当初から、外国機種に対抗できる大型コンピュータの開発に取り組んだ。そして、1972(昭和47)年に処理速度が速く記憶容量の大きな計算機〈DIPS-1〉を完成、各種システム用に導入され、その後も性能向上が図られた。DIPSシリーズとともに、データ通信サービスの発展を支えたもう一つの重要な要素は、1979(昭和54)年に運用が開始されたディジタルデータ通信網(DDX網)である。〈回線交換網〉と〈パケット交換網〉の2種類があり、前者は高速・高品質のデータ転送に、後者は経済的で多様なデータ転送に適していた。
時代のスケッチ2
高度化し多様化するオフィスの通信利用
ファクシミリ通信網が高度な画像通信サービスを提供する
1971(昭和46)年の公衆電気通信法改正にともなう〈電話網の開放〉により、電話網を音声だけでなく、データ通信にも利用することが可能になった。それまで専用線サービスとして新聞社や大企業の社内通信などに限定されていたファクシミリ通信が、誰にでも利用できるようになった。ファクシミリによる画像伝送のメリットは、漢字文化圏の日本では特に大きかった。1981(昭和56)年にはファクシミリ通信網サービス(Fネット)が開始し、低料金化、高速化、同報通信、親展通信、不達通知など、画像通信サービスが向上、高度化した。ビジネスホンや自動式の構内交換機(PBX)も普及し、オフィスの情報通信機能が高度化、多様化した。
誰でも利用できる画像通信 電話ファクス
1971(昭和46)年の〈電話網の開放〉により加入電話網に電話以外の様々なデータ通信のための端末をつないで利用することが可能になった。そのひとつとして、従来は専用線でのサービスに限定されていたファクシミリ通信が、一般家庭や小規模事務所でも利用できるようになった。これを受け、電電公社は、1973(昭和48)年から〈電話ファクス〉の商品名で装置の提供を開始した。電話ファクスを事務所や家庭の電話線につなぐだけで、誰でも便利な画像通信が利用でき、特に、建築設計事務所やデザイン事務所など、図面やイメージを扱う業種を中心に普及が進んだ。
自動式PBXとビジネスホン
多機能化するオフィスの電話
企業活動の迅速化、能率化の一環として、また、企業内のオペレータ要員不足などの理由から、企業通信の要である構内交換電話(PBX)の自動化が進んだ。1973(昭和48)年には、プッシュホンに、ワンタッチダイヤル、転送電話などビジネス向けの多様な機能を付加したプッシュ式ビジネスホンが登場した。これは、主装置を呼ばれる簡単な交換装置との組み合わせで、小規模事業所向けのミニPBXとしても機能した。
〈Fネット〉と〈公衆ファクス〉
ファクシミリの利便性を増す新サービス
1981(昭和56)年から始まったファクシミリ通信網サービス〈Fネット〉は、利用者からの送信情報を一度ネットワーク内の装置に蓄積し、高速ディジタル回線にのせて送信するものである。複数の宛先へ一斉に配信する〈同報通信機能〉や、G3機-G4機間でも相互通信できる〈通信モード機能〉などの便利な機能を、安価な料金体系で、企業へのファクシミリの普及を促進した。また同年、電話局の窓口に設置したファクシミリ機を公衆電話のように利用してもらう〈公衆ファクス〉のサービスが、さらに1985(昭和60)年には、花屋や酒屋などの店舗の業務用ファクシミリ機を一般の人々の利用に供してもらう〈街角ファクス〉のサービスもはじまり、ファクシミリがより身近で便利なものになった。
時代のスケッチ3
〈どこにいても自由に使える夢の電話〉が現実に
個人向け移動電話サービスは自動車電話から始まる
1979(昭和54)年、自動車電話サービスが、東京23区を対象エリアとしてはじまった。それまで、移動電話サービスは沿岸の船舶や鉄道の〈公衆電話〉に限られていたが、サービスエリア内を多数の小さな無線ゾーンでカバーする〈セルラー方式〉を採用することにより、限られた周波数の電波を使って同時に多数の〈個人用端末〉が通話できる自動車電話サービスが可能になった。自動車電話はやがてサービスエリアを全国に拡大し、無線呼出サービス(ポケットベル)の普及とあわせ、本格的な移動通信時代が幕を開けた。
万博に登場した〈ワイヤレステレホン〉
見えてきた個人向け移動電話のかたち
電電公社は1960年代なかばから携帯型電話の研究を進め、送信出力1mWで10時間以上の連続使用に耐える携帯電話機を開発した。研究所内で機能試験を行うとともに、1970(昭和45)年、大阪で開催された万国博覧会に〈ワイヤレステレホン〉として出展。約65万人が、やがて始まる個人向け移動電話サービスを先取り体験した。ワイヤレステレホンの開発で培われた技術は、その後、宅内のコードレス電話やPHSへと発展していった。
クルマをオフィスに変える自動車電話
セルラー方式がひらく移動通信の時代
1979(昭和54)年12月、東京23区ではじまった自動車電話サービスは、多忙化するビジネスシーンの中で、自動車を‘動くオフィス’に変えるツールとして、主に企業によって利用された。自動車電話サービスは、サービスエリアを、無線基地局を中心とした複数の小ゾーン(セル)に分割してカバーする〈セルラー方式〉によって実現した。離れたゾーンでは同じ無線周波数が使えるため、限られた無線周波数帯域で多くのユーザが通信できる。サービスエリアは、大阪、名古屋と順次拡大し、1984(昭和59)年には全国へと広がった。
最前線の営業マンを支援する無線呼出サービス(ポケットベル)
無線呼出サービス(ポケットベル)は、最初に普及した個人向けの移動通信サービスである。1968(昭和43)年に東京でサービスを開始し、逐次、全国にエリアを拡大していった。契約したポケットベルの番号を電話からダイヤルすると、その信号が無線基地局から電波として発信され、該当するポケットベルが鳴り出すしくみである。呼び出された者は、最寄りの公衆電話等から応答することになる。携帯電話の無い時代において、特に外回りの多い営業マンには必携のビジネスツールとなった。
時代のスケッチ4
安定した電気通信サービスは日常の生活基盤
不測の事故が人びとにネットワークを意識させる
1984(昭和59)年11月16日、東京世田谷電話局のとう道内で発生した火災は、現代社会がいかに多くを電話に負っているかを明らかにした。火災により不通になった加入電話は約8万9,000。専用線も約3,000回線が通信不能となり、特に金融機関のオンラインシステムがストップするなど、地域社会の機能はマヒ。ネットワークの信頼性向上にむけて多くの教訓を残した。
1984年11月16日正午
世田谷電話局とう道内で火災発生
とう道内火災は104条のケーブルを燃やし、加入電話約8万9,000が不通になるという大きな通信被害をもたらした。周辺電話局(弦巻、砧、狛江、成城)でも電話がかかりにくくなり、また、専用線も約3,000回線が通信不能となった。災害対策用可搬形無線機や衛星車載局の出動、自動車電話の活用、隣接局からの架空ケーブルの延線など、無線・有線を駆使して応急対応しつつ、建設業界、メーカなどの協力も得て、昼夜を分かたず復旧作業が進められた。その結果、当初1ヶ月はかかると予想された復旧期間を大幅に短縮して、11月24日にはすべての加入電話を、また26日には専用線、データ通信回線などすべてのサービスを復旧することができた。
特設公衆電話と伝言取次サービス〈発信〉と〈着信〉を確保する応急策
通信設備の復旧を進める一方で、電電公社は、お客様対策本部を臨時に設置し、問い合わせ・苦情対応、復旧状況の広報活動、無料特設公衆電話の設置、伝言取次などを実施した。特に伝言取次は、電電公社社員が自らの足で伝言の配達を行うもので、‘昭和の飛脚’とマスコミに取り上げられるなど高い評価を得た。特設公衆電話が、電話途絶地域内から外部への通信手段であるのに対して、伝言取次は、逆に電話途絶地域内への通信手段を確保するものであった。
世田谷局とう道内火災の教訓
電電公社は、1968(昭和43)年の十勝沖地震を契機に、地震、風水害、局舎内の火災等、各種災害に遭遇するつど、その被災内容を分析し、防災体制の強化に努めてきた。1984(昭和59)年の世田谷局とう道内火災では、〈羅障が長期間にわたった〉〈消火に長時間要した〉〈専用回線が被災して回復まで時間を要した〉〈加入者網の高信頼化への要望が強まった〉等の課題が明らかになったため、11月28日、社外の専門家を含めた〈とう道火災事故対策委員会〉を設置し、各種課題の検討を行った。
委員会には5つの分科が設けられ、それぞれ、以下のような事柄について検討がなされた。
〈第一分科会〉ケーブルの不燃・難燃化、火を使わない工法等線路設備に関する対策の検討
〈第二分科会〉防災壁の設置推進、とう道内消火対策等とう道設備に関する検討
〈第三分科会〉とう道の入出管理、作業管理強化及びとう道管理システムの導入促進等とう道管理・安全に関する検討
〈第四分科会〉他企業及び諸外国における防災対策の調査分析、各分科会の検討への反映
〈第五分科会〉各分科会からの要請による実験、結果の評価及び各分科会への反映